(やった! 100点!)



2年生になって最初の期末テスト、わたしは化学で100点をとった。






中学の時は化学――理科なんて好きな科目じゃなった。
テスト前だけ試験範囲の部分を勉強するぐらいで本当に興味が無かった。
身近に感じられる星や植物なんかはまだ良いとして、元素記号なんて絶対普段の生活には関係ないって思ってたから。

今でも化学自体はそんなに好きじゃない。
それは変わらないんだけど、中学の時と違う事が確かにある。
ひとつだけ。
それは、担当の先生が違うという事。






あれは1年生の3学期になってすぐの事。
その日、日直だったわたしは、化学の授業の後片付けをした。
決まった棚の決まった位置に並べるだけの簡単な作業は、特に難しい事もなくすごく早く終わったんだ。



それなのに若王子先生はものすごく褒めてくれた。



「こんなに綺麗に片付けてくれてありがとうございます。先生、大助かりです」
「そんなに感謝されるほど、大した事してませんよ?」
「いえいえ。先生、本当に嬉しいです。」



こんな事でこんなに喜んでもらえるなんて思ってなかったから、照れ臭くて仕方が無かった。



「でもね」
「え?」
「実は、先生がもっと嬉しくなる事、他にあるんです」



ニコニコした顔でグッとわたしに近づいて右手の人差し指を立てながら先生はそう言った。
先生がもっと嬉しくなっちゃう事、いったいなんだろう?



「聞きたいですか?」



先生のその質問、「聞いて聞いて」って言ってるみたいですよ?
だって、いつもよりもクリッと見開かれている瞳がキラキラしてるんですもん。
そんな先生を見たら、聞かないわけにはいかないじゃないですか。



「ふふっ……はーい、聞きたいでーす。なんですか?」



こどもみたいな先生がなんだか可笑しくて、自然と笑顔で答えていた。



「100点です」
「はい?」



先生は先生だから、テストで100点とりたいって事ではないよね?
いったい何の話だろう?



「僕の可愛い生徒がテストで100点とったらチョー嬉しいんです」
「100点、ですか」
「はい。あ、できれば化学で」



100点かぁ……
わたしにはちょっと無理かもしれない。
国語とかならいざ知れず、化学で100点なんて……
今までのテストだって平均点そこそこだったのに……

でも、なぁ……

先生の『もっと嬉しくなっちゃう』顔を見てみたいなぁ……



「君にも、きっと出来るよ?」
「そうでしょうか?」
「はい。先生が保証します!」
「うーん……じゃあ、がんばってみようかなぁ……」
「うん。がんばれ。先生、応援しちゃいます」



そうして、わたしは、その日から化学の勉強をがんばった。
分からない事がある時は、先生に何度も質問しに行った。
先生は面倒臭がらずいつも丁寧に教えてくれた。

1年の学年末テストはそれまでより少しだけ良くなった。
100点には遠く及ばなかったけど。

2年生になって、やっと授業のレベルに追いついてきた。
先生が授業で言う事が素直に頭に入ってくるようになった。
そして、1学期末、ついに100点がとれた、というわけ。






張り出されたテスト結果を見てついつい一人で笑ってしまう。
がんばって結果が出るってこんなに嬉しい事だったんだぁ……ふふっ。

と、背後でバサバサッという音がした。

その場にいたみんなが振り向く。
そこにはいつもの調子の若王子先生がいた。
先生の周りには、本が何冊か散乱している。



「若ちゃーん、大丈夫かぁ?」
「ホント、いつもドジだよなぁ!」



生徒たちの笑い声の中、落ちた本を拾いながら先生も笑っている。



「あはは。大丈夫ですよ。お構いなく」



わたしはパタパタと駆け寄って落ちている本を何冊か拾い上げた。



「やっ、ありがとう」



ふんわり笑いかけてくれるのはいつもの事なのに、今日はいつもよりドキドキする。
先生、わたし、100点とったんですよ?
嬉しい気持ちになってくれましたか?



「あの――」「あの――」
「あ、若王子先生、お先にどうぞ」
「や、すみません。えーっと、少し、手伝ってもらえませんか?」
「お手伝い? いいですよ。なんでしょうか?」
「助かります。この本、一緒に化学準備室まで運んでくれませんか?」
「はい。いいですよ」



拾った本をそのまま持って、先生のあとをついていく。



「ずいぶん沢山ありますね。全部先生が読むんですか?」
「はい。夏休みの自由研究です」



自由研究って……嬉しそうに言うけれど、英語の分厚い本が数冊、それに、タイトルが意味不明な日本語の本も10冊ぐらい。
いくら夏休みが長いからって全部読めるんだろうか?






「この机の上に置いちゃってください」
「はーい」
「ありがとう。助かっちゃいました」
「いえ、どういたしまして」



先生は大人なのに、こんなに勉強するんだ。
わたしの化学の100点なんて、大した事無いように思えてきた。
あの時の話だって、もう半年も前の事。
きっと、先生、覚えてない。



「じゃあ……わたし、失礼します」



ぺこりとお辞儀をした。



なんだか、ちょっと、寂しくなってきちゃった。
先生が言ったから、がんばったのに。
先生もずっと応援してくれてるって思ってたのに。



先生の『可愛い生徒』は、わたしだけじゃない。
100点とる子は他にもいるだろうし、わたしはその中の一人なだけ。



そんな事にも気付かず、一人で盛り上がったりして……馬鹿だなぁ、わたし……






「あ、まだ、帰っちゃ駄目です」
「え?」



お辞儀した後、部屋を出て行こうとしたら、呼び止められた。
先生がわたしに近付いてくる。

なんだろう?

すぐ傍まで来た先生は、今までに見た事の無いような表情でわたしを見下ろした。
笑顔なんだけど、ただ楽しいという表情じゃない。
目が違うのかな?
深い緑色の瞳は揺れていつもよりも優しく見える。



「先生?」



どうしたの? と、沈黙に耐えられなくて小首をかしげてみたら、ポフンと先生の掌がわたしの頭に乗った。



「100点おめでとう。よくがんばったね。偉い偉い」



そう言いながらわたしの頭を優しく撫でてくれる。
フンワリと、ゆっくりと。
大きな手が髪の毛を滑る感触が気持ちいい。
胸の奥からジンとあったかいものが湧き上がる。



「ちょっと、こどもっぽかった?」
「ううん、すごく嬉しいです」
「うん、僕もチョー嬉しいです」
「本当ですか?」
「もちろんです」



先生……ちゃんと、覚えてた。
嬉しい。
100点とった事より、先生にこうやって喜んでもらえた事が本当に嬉しい。
先生に、褒めてもらえて、嬉しい。
先生が、わたしを見てくれている事が、嬉しい。



「君は……好きなんですね?」
「え?」



わたしの今の心の中を見られたのかと思ってドキッとした。
先生も頭の上で撫でていた手をピタッと止めている。

そう。

どうして化学の勉強がんばろうって思ったか最初は分からなかったけど、今なら分かる。
先生が言ったから。
大好きな先生が言ったから。

わたし、若王子先生が、好き。



「先生……わたし――」
「うん。本当に好きなんですねぇ、化学」
「あ……」



とたんに顔が赤くなるのを感じた。
わたしのばかばかばか!



「どうかしました?」
「い、いえ……」



恥ずかしい。
勉強の話だったなんて……

あー、もう、わたしが勘違いした事、先生は絶対気付いてる。
そんな風に楽しそうな顔で見ないでください。
穴があったら入りたいです……



「ところで……明日の日曜日は空いていますか?」
「え? あ、はい。空いてます」
「じゃあ、君の100点のお祝いをしに行きましょう」
「あ、あの……」
「僕のお勧めはボーリング場です。きっと楽しいです」



それって、課外授業じゃないですよね?



「あれ? ブ・ブーですか?」
「いえ! あの、大丈夫です」
「そうですか。じゃあ、明日……ちょっとドキドキですね」



若王子先生とデート……
ちょっとどころじゃない。
すごくドキドキする。



先生? わたし、また勘違いしちゃいますよ?



いいんですか?



先生がどんな気持ちで言ったのか知りたくて
下からその顔を覗き込んだら
フワリとはにかんで笑った先生。



優しく揺れている深緑の瞳の奥には、わたしだけが映っていた。









あなたが
  嬉しいと
 私も
  嬉しい


















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